門前茶屋かたたや物語

京と江戸を結ぶ中山道、その歴史は「東山道」に由来します。


「東山道」は、畿内より東の内陸部へ続く交通網として発達し、鎌倉時代には「いざ鎌倉へ!」と権力集中のために重要視されました。

そして江戸時代には「東海道」と並び、京と江戸を結ぶ重要ルートとして大規模な整備が行われました。

特に中山道は、川の氾濫などによる足止めが少なく、朝鮮通信史や宮方、姫君の輿入れなどに使用されました。


その中山道にあって「京発ち守山泊まり」と言われ、旅人が京の三条大橋を出発し一日目に宿を求めたのが守山宿でした。

当時の守山宿は、30軒以上の旅籠が軒を並べ、茶屋、商店なども立ち並び大変な賑わいを見せていたそうです。

さらに、守山の本宿では足りず、今宿、吉身も加宿として加わり、全国的にも大きな宿場町のひとつであったようです。


一般的に宿場には公武のための本陣、脇本陣、問屋場などがおかれ、一般の旅人のためには旅籠や木賃宿、茶屋、商店などが立ち並んでいました。

旅籠とは食事付の宿泊施設であり、木賃宿は自炊の宿泊施設です。

また、茶屋は旅人の休憩場であり、お茶や食事、お酒などを提供していました。


その守山宿には東門院守山寺という寺があり、現在でも御本尊の守山観音様が信仰を集めています。

東門院は、延暦7年(788年)伝教大師最澄が、比叡山(後の延暦寺)を建立した時、鬼門の方角に東門として比叡山を守る寺を開かれたのが始まりと言われています。

称号は、桓武天皇により比叡山東門院守山寺(比叡山を守る寺)と命号され、「守山」という地名の由来となっているそうです。


その東門院の門前に、旅人の休憩場として1軒の茶屋がありました。

時は天保年間(1830年~1843年)江戸後期のことです。

その茶屋は、「堅田屋」といい、一部旅籠の機能を有しており、飯盛(めしもり)旅籠であったとも言われています。

飯盛旅籠とは、飯盛女(めしもりおんな)がいる旅籠のことで、遊興的な要素を持つ宿のことです。

遊女が規制されていた時代にあって、名目は奉公人として黙認されていたようです。


守山宿では、定期的に市が開かれており、その賑わいは、京や難波、日本橋など比べものにならないくらいであったそうです。

「堅田屋」も大いに繁盛したことだと思います。


そんな賑わいがあったころから190年後の令和の時代に「堅田屋」は「門前茶屋かたたや」として生まれ変わりました。

石臼挽きのそば粉を使用した十割そばが人気の本格的なお蕎麦屋さんです。


歌川国芳の浮世絵「木曽街道六十九次之内」には達磨大師が守山宿でそばに舌鼓をうつ様子が描かれています。

江戸時代の旅人も在りし日の「堅田屋」でお蕎麦を楽しんでいたかもしれません。

十割そば 門前茶屋かたたや

築190年(天保2年築)の古民家そば屋 石臼挽きのそば粉を使用した打ちたて、茹でたての十割そばのお店です。